恩師をたずねて

 仰げば尊し我が師の恩。引退された恩師を訪ねて近況をうかがうこの企画。

今回お邪魔したのは、いつも温和な相好に真剣の凄みを湛える早川雅章先生(16回生)です。

 陶栄町の「ばんこの里会館」。雨に潤う萬古神社の緑を眺めているところへ、早川雅章先生(在職1977〜2020)はお越しくださいました。前にお目にかかったときと比べると髪に混じる白いものが増えた気もしますが、背筋のすっと伸びた美しい立ち姿、若々しい印象はちっともお変わりありません。

「居合、読書、自治会の毎日です。」

 趣味の居合道と読書を楽しみながら、「なかなか逃れられない」地元自治会やそれにまつわる諸々の役務に携わっておられるとのこと。聡明かつ清廉で穏やかなお人柄の早川先生が、地域の方々から頼りにされるのは自然なことだと思います。

 コロナ禍のタイミングに2度目の腰椎ヘルニアを患うまではほぼ毎日稽古に励んでおられたという居合道。日本刀の操法にとともに心身の修練を目指す武道です。刀を鞘から抜き、振り、鞘に収めるまでの形を演武し、大会ではその優劣を判定して勝敗を決します。多くの場合、真剣を扱うため、正確な技術だけでなく、高い精神性が求められます。

 現在は火水金土曜の週4日、道場に通い、火曜と金曜はご自身の稽古、水曜と土曜は低段者の指導に当たっておられるとのこと。1つ間違えば大けがに至る真剣を使った稽古は、自身と向き合って精神を集中し、黙々と刀を振る時間なのでしょう。先生の美しい立ち姿と真っ直ぐなお人柄の理由が分かった気がしました。

 現在7段の早川先生も居合の道に入られたのは大学時代から。それまでは剣道に取り組んでおられたそうです。きっかけは「お前も武道をやれ」というお祖父さまの言葉でした。

 もともと名古屋で石油の商いに携わっていた早川家が四日市へ移り住んだのは昭和のはじめ頃。日本が戦争へと突き進む中、疎開するような形でした。滝川町に一反ほどの土地を買って工場を建て、お祖父さんが中心となって豆腐の生産に使う「澄まし粉」の生産を始めたそうです。

 豆腐の凝固剤としては塩化マグネシウムを主成分とする「ニガリ」がよく知られていますが、戦時中、この「ニガリ」が零戦を作るジュラルミンの原料となったため、代替品として硫酸カルシウムを主成分とする澄まし粉が多用されるようになりました。澄まし粉の原料は石膏ですから、萬古焼の型に使われた石膏が大量に廃棄される当地での澄まし粉生産は、まさに時世と地域性に合った商いだったわけです。

 戦後になっても、豆腐の凝固剤は使い勝手の良い「澄まし粉」が使われ続けたので、早川家の商売は小さいながらも順調でした。しかしお父さまが28歳の若さで脳腫瘍で急逝。お祖父さまは廃業を決断されました。早川先生が5歳の頃のことです。お父さまについては「写真の顔しか知らない」とおっしゃいます。

 遺されたお父さまの写真の中には柔道着を抱えた学生時代の写真も有りました。武道で心身を鍛え、たくましく成長してほしい。お祖父さまにはそんな思いがあったのでしょう。昔から痩せ型だった早川先生は剣道を選びました。

 中学は海星中学校に入学。南山第二高校が海星高校となった翌年の1956年に開校した海星中学校は、当時まだ6年制を採用しておらず、独立した3年制の中学校でした。

 当時の日本は高度経済成長が始まったばかり。多くの人がまだまだ貧しい生活を送っていました。当然のことながら、一家の大黒柱を失った早川家の経済事情も決して豊かとは言えませんでした。それでも早川先生が私立の海星中学へ進学することになったのは、当時四日市教会におられたムニ神父さんとのご縁がきっかけだったそうです。たまたま隣家にお住まいだったカトリックの信者さんが、早川先生と2歳下の弟さんをスクーターの後ろの乗せたりしてたびたび四日市教会へ連れていってくれました。
「やんちゃ坊主やったもんで、いっぺん連れてたってくれと母親が言ったらしい。」
 戦後、日本社会が大きく変化しようとする中で、子どもたちにより良い教育を受けさせたい、何か新しいものを学ばせたい、そんな思いがお母さまにはあったのではないでしょうか。

 教会には同じ年頃の子どもたちがいたらしく、教会へ出かけるのは楽しい時間だったそうです。そうして過ごしているうちに、海星中学への進む道が開けました。
「貧しいから特待生。母親と神父さんとが相談したらしく、弟と2人を1人分の授業料で。」
 そもそもエスコラピオス会は、聖ヨセフ・カラサンスがローマの貧しい子どもたちに無料の教育を提供することから始まりました。青少年の教育を通じて社会をより良くしようとする修道会としての取り組みは今も昔も、場所が違っても変わらないのですね。

 学校へは家の近くからバスに乗って通われました。当時は桑名と鈴鹿を結ぶ三重交通の直通路線がありました。
「1号線の百五銀行の前にバス停があってね」
 雨の日に銀行の自転車置き場で雨宿りしながらバスを待ったことも良い思い出だとおっしゃいます。

 中学時代の担任は鈴木実先生。同学年のもう1クラスはラカラ神父様が担任で、とても穏やかな学年だったそうです。

 海星中学卒業後はもちろんそのまま海星高校に進学。長男として厳しい家計を支えるべく、安定した好条件の就職を実現する。そのために法・経・商学部がある首都圏の大学へ進む。そんなことを漠然と目指していたとおっしゃいます。

 しかし、そんな「現実的」な考えとは裏腹に、歴史の面白さに目覚めたのもこの頃でした。中学ではちっとも面白いと感じられなかった歴史の授業が、高校で世界史を学ぶようになると格段に面白く感じられるようになりました。
「日本の中のチマチマしたことより、世界の中で大きな流れが動いていく、その感じが面白かった。授業中も、自分で教科書を読んで自分の世界に入っている感じだった。」

 高校時代の担任は伊與田博先生、川村浩晏先生、荒木謙先生。軍隊上がりの伊與田先生は特に厳しい方で、叱られた生徒は硬い厚紙が表紙の国語の教科書がボロボロになるまで殴られていたとか。今となっては考えられない話ですが、海星に限らず昔の学校がそんな様子だったことは、よく耳にする話です。

 剣道部の顧問は、入学当時の森嘉門先生から、間もなく米倉清先生に替わりました。どちらも剣道の経験者というわけではなかったようです。当時の部活動は今以上に生徒の自主的な活動の色合いが濃く、技術的な指導は卒業した有志のOBが支えてくださったそうです。顧問の先生はまったく形式的な存在で、「練習には来たことがなかった」そうですから、現在の先生方の多忙ぶり、特に部活動の重い負担が問題視されている現状から考えると、ある意味理想的な形だったかもしれません。

 現在の体育館(今年、大改修されて冷暖房完備となるそうです!)が1964年の東京オリンピックに合わせて建設されるまで、海星には体育館がありませんでした。体育館ができても、「床が傷む」という冗談のような理由で剣道部の練習には使わせてもらえなかったそうです。バレー部やバスケ部は当たり前のように使っていたそうですから、単に剣道部が冷遇されていたということだったのでしょう。外国人の神父様にとって日本の武道は馴染みが薄く、ピンと来なかったのかもしれません。翌年に武道館ができるまで、剣道部員は靴を履いて屋外のコンクリートの地面で稽古をしていました。

 ただ、ごく稀にお隣りの四日市南中学校に招いてもらい、南中学校の教頭先生から稽古を付けてもらうことがあったそうです。7段の腕前を持つ剣道協会の重鎮だったその教頭先生は、米倉先生の実のお兄さまだったそうで、米倉先生が海星剣道部の顧問だったのにはそういう背景もあったのでしょう。
 武道館の建設と同時に、剣道の授業を担当するために元警察官の藤井政五先生が着任され、剣道部の顧問にもなられました。
 海星がスポーツの部活動に力を入れ始めたのはこの頃で、野球部が初めて甲子園大会に出場したり、サッカー部が当時の強豪・上野工業高校と初めて決勝を戦ったりしたのもこの頃でした。

 現役での大学合格が叶わなかった早川先生は、アルバイトをしながら浪人生活をすることになりました。バイト先は自宅近くのガソリンスタンド。昼はスタンドで働き、夜勉強する生活を続け、7月までに大学の入学金の半分程度を貯金できたといいます。
「よく働くからってボーナスをくれたんですよ。」
 バイト先の社長さんも、苦学する早川先生を応援してくれていたのでしょう。この「ボーナス」が人生を大きく変えるきっかけになりました。

マスク越しでもよく通るお声でした。 「前」という形の「血振り」の所作。刀の血を振り払い、鞘に納める直前の姿勢。敵に切っ先を向けつつ周囲を警戒する。

「本屋で『学生村』のパンフレットを見て(決めた)。自分で勉強してて、塾にも行ってなかったから、気分を変えて行ってみようと。」

 当時、過疎化が進みつつあった各地で、地域を挙げて学生を募集し、空き部屋のある民家に下宿させる「学生村」が開設されていました。地域おこしの一環として行われていたので、料金は格安だったようで、エアコンが普及していなかった当時、閑静な避暑地で受験勉強に取り組める「学生村」はちょっとしたブームになっていたようです。

 早川先生の人生を大きく変えたのは、横浜から来たという同宿の学生でした。横浜国立大学の文学部に入学し、小説家になることを目指していたその男子学生は、膨大な数の小説を持ち込んで逗留していました。
「衝撃でしたよ。受験生やっていうのに参考書1冊も持ってない。」
 そんな彼の姿を目にし、ともに夏の日々を過ごす中で、安定した就職を漠然と目指し、そのために進学先を決めようとしている自身の有りようを「面白くないな」と感じるようになったそうです。
「やりたいことをやろう。」信州の「学生村」で早川先生は史学部を目指すことを決意されたのでした。
「学生村に行ってなかったら、ごく普通のサラリーマンになってたと思う。」
 横浜から来ていたその学生とは、その後連絡を取ったりはしていないとのこと。彼はその後、横浜国立大学へ進めたのでしょうか? 小説家になれたのでしょうか? 気になるところです。

 その次の春、早川先生はめでたく中央大学史学部に入学。ただし「英語の成績が足らなかった」ため第1希望だった西洋史学科ではなく、第2希望の東洋史学科の学生となりました。ただ「東洋史学科」では成績優秀だったため「奨学金がもらえてありがたかった」とおっしゃいますから、まさに禍福は糾える縄の如しです。

 早川先生が中央大学に入学した一九六八年は学生運動の激しかった頃。中でも中央大学は「熱い」大学でした。入学式も講堂に流れ込んできたヘルメットの集団に潰され、学生生活は学校で講義を受けることができない形で始まりました。
「毎朝、機動隊のバスが2、3台並んどる横を通ってた」
 他の多くの学生と同様に、早川先生もあちこちのデモに参加されたそうです。
「今考えるとブームみたいなもんやった。」そう振り返られます。
 授業が正常な形で再開されたのは8月の半ばを過ぎてからだったそうです。

 大学でも剣道を続けるつもりだった早川先生ですが、入学間もなく先輩にたしなめられて入部を控えることに。当時の中央大学剣道部は屈指の強豪校として有名で、早川先生が入学したのは同部が学生大会で何度目かの優勝を果たした直後のタイミング。「剣道部に入ると10キロ痩せる」と言われていた当時の早川先生は体重52キロ。「殺されるぞ」という先輩の脅し文句を笑い飛ばせる自信は持てず、また活動がソフトな「同好会」も無かったことから、剣道から居合道へと進む道を変える決意をされました。

 実は大学に進む前から、居合道に触れる機会には恵まれていました。高校剣道部の顧問だった藤井先生は居合道の心得もお有りで、就職志望の高校3年生には居合道の稽古を付けておられたのです。進学志望の早川先生は対象外でしたが、稽古の様子は目にしておられました。

 居合道という武道の性質もあってか、居合道部員の中には保守的な思想の持ち主もいたそうです。当時の一般学生には革新的な考えを持つ者が多かったですから、居合道部の中には右翼から左翼まで幅広い立ち位置の学生が在籍していたことになります。それでも、あるいはそれだから、かもしれません、部内で政治的な論争が行われることは無く、衝突が起こることも無かったそうです。社会や政治のありようについて熱く議論を戦わせることが当たり前で、過激なデモに参加することが「ブームみたいなもん」だった当時の社会情勢を考えると、意外に思えます。ともに居合道を愛する者どうし、居合道部という自分たちのコミュニティを平和に存続させるために、互いの考え方の違いを認め合っていたということなのでしょう。学ぶところは大きい気がします。

 入学当時、早川先生は駒場東大前の学生寮に住んでいました。その学生寮は、大きな古民家をそのまま利用したもので、エスコラピオス会が運営していました。神父さんが寮長を務め、10名程度の学生が暮らしていたそうです。半数程度が海星の卒業生、残りは他の学校の卒業生だったそうです。
 後に東海ラジオのアナウンサーになられる天野良春さん(14回生)は早川先生と同じ中央大学文学部の3学年先輩にあたり、よく可愛がっていただいたとのこと。
帰りが遅くなって門限の10時を過ぎた時には、中にいる天野先輩によくカギを開けてもらったそうです。

 残念ながらその寮は間もなく建て替えられることとなり、別の下宿へ移ることになりました。(寮の跡地には現在もエスコラピオス修道会カラサンス修道院が建っています。)

 早川先生が大学で専攻された東洋史学はアジア全域がその研究対象ですが、古くから中国と深い関係にある日本においては、中国史を扱う比重が大きくなっています。特に国交正常化から間もなかった70年代当時、日本国内は一大中国ブームの最中で、都市部ではあちこちに中国語教室が見られるような状況でした。
 そんな時代でしたので、早川先生の研究対象も中国で、主に漢代を中心に学ばれたとのこと。卒業論文のテーマは後漢末期の「黄巾の乱」。後漢王朝の衰退を招いた農民の反乱ですから、多くの若者が政治体制に反意を示していた当時の世相を反映した研究テーマだったといえましょう。

 文学部を卒業された早川先生は、そのまま大学に残り大学院に進まれました。当時は研究の道に進むことも考えておられたので、自然なことでした。しかし、早川先生ご自身は漢文の訓読に対する苦手意識が克服できず、研究の道を進むことを断念されたそうです。
「青学へ『山海経』の勉強会に行かされたん。それがちんぷんかんぷんで全然読めず、本当につらい思いをした。」
 中国古代の地理や神話をまとめたとされる「山海経」は、野生動物に交じって妖怪が登場したり、長い年月の間に再構成が行われたりしており、難解な「奇書」とされているものです。一学生に過ぎない早川先生が苦戦されたのは当然のことだったろうと思われます。

「歴史でめし食ってこと思たら、研究者か教員しかない。」
 地元・四日市に戻って海星の教員となられたのは26歳のこと。1年目は常勤講師として、2年目からは専任教諭としてお勤めになりました。
 授業は40年間の教員生活を通じて「世界史」を担当されることが多かったそうですが、日本史や政治経済、中学の地理や公民を担当することもありました。

「歴史の大きな流れをどう掴むか。」
 授業をする上では常にそのことを意識しておられたそうです。それはまさに、早川先生ご自身が高校生の頃に世界史を学んで「おもしろい」と感じた点でした。
「でも、生徒には迷惑を掛けたなと思ってるんですよ。自分が言いたいことばかり喋って、生徒たちが求めているものを与えられなかったんじゃないかと。」
そう早川先生はおっしゃいます。
 社会が時代とともにどのように変化してきたか。その大きな流れを学ぶことが歴史の面白さであり、歴史を学ぶ意味もそこにあるに違いありません。
「多少なりとも上(研究職)を目指してやってきたっていう変なプライドがあって、人と同じことはやりたくないと拘るところもあって…。」
 確かに、中高生の歴史の学習は、ともすれば細かな情報をどれだけいっぱいアタマに詰め込むかということに意識が向きがちなのも事実。実際、単語や記号で表現することが難しい「大きな流れ」のようなことはテストでも出題されにくいでしょう。定期テストや入学試験で扱われないことが日々の学習の中で軽視されてしまうのも分かる気がします。
「どこが大事なんですか?」そんなふうに生徒から尋ねられたこともあり、ご自身が伝えたいことが伝わっていないことを残念に感じられたそうです。だからこそ「迷惑を掛けた」と振り返っておられるのでしょう。
 しかし、今改めて想像してみると、その生徒が感じていたのは「本当に大事なことがテストで問われない」という世の中のあり方に対する疑義だったのではないでしょうか。早川先生が伝えたかった大事なことはきちんと伝わっていて、生徒たちにも大事なことだと認識されていた。だからこその問いだったのだろうと思います。

 就職当時から高校だけでなく中学の授業も受け持っておられた早川先生。中学では生徒が人懐こい上に、クラス担任だけでなく授業担当も持ち上がることが多く、また社会の授業数も多いので、生徒との距離が近くなって面白かったとおっしゃいます。そんな頃、興味深い話が早川先生のところへ舞い込みました。
「たまたま鳥居さんの資料があるよって話を地元の方から聞いたん。で、見せてもらったら、とんでもないことになってて…。これはちょっと保存しとかんと、と。」
 「鳥居さん」とは海星のすぐ前に立つ「日永の追分」の鳥居のこと。東海道を行き交う人々が伊勢神宮を遙拝できるようにと1774年に建立されたものです。もちろん、何度も建て替えが行われて今に至っているのですが、この鳥居の建て替え費用には「鳥居地」と呼ばれる土地からの収益を充てることになっていて、そのことに関する古文書が鳥居に近い個人宅に大量に収蔵されていたというのです。

 残されていた史料は整理もされておらず、当然中身も分からない状態でした。そこで早川先生が生徒たちにこの話をし、調査への協力を呼びかけたところ、10名弱の生徒たちが応じたそうです。そこから「くずし字辞典」を駆使して試行錯誤しながら中身を解読。膨大な資料の整理を成し遂げられました。

 この活動はその後さらに発展し、同好会「歴史研究会」として日永界隈の旧家を測量したり、石の道標の拓本を採ったりといった街道調査も行うようになったそうです。調査結果をまとめた資料集も刊行しました。
「楽しかった。」
 早川先生はそう振り返られ、長い教員生活の中でも「歴史研究会」の活動が最も印象深く残っていることだとおっしゃいます。活動はまさに郷土史に関する「研究」でしたから、元々研究職を志しておられた早川先生にとってはしっくりくる活動だったのでしょう。

「生徒と交流しながら1つの目標に向かっていくというのがね、授業なんかよりずっと楽しかった。」  考えてみれば、やっておられたことは大学のゼミと変わりません。生徒諸君にとっては貴重な体験、良い学びの機会だったろうと思います。

 こうした活動がきっかけで四日市市博物館の学芸員さんとの交流が始まり、この後、依頼を受けて菰野町史の執筆にも携わることになりました。担当されたのは農業史の部分で、統計史料の分析や農家からの聞き取り調査などを元に執筆されたとのこと。40代の半ば、生徒指導部長をお務めの頃で、2時、3時の深夜まで執筆に励む毎日だったそうです。

 当然、菰野町史の執筆は、体力的なしんどさをもたらしたことでしょう。しかし、当時のお話しをうかがうと、性に合わない生徒指導部長職の精神的なストレスがとても大きかったご様子でしたので、菰野町史に関わられたことはメンタルの平穏のためにむしろ良い効果をもたらしていたのではないでしょうか。

 もともと世界史が好きで東洋史学科に進んだ早川先生にとって、日本史の研究は専門外だったわけですが、大学時代に日本史学科の先輩の手伝いで団体誌編纂のための調査のアルバイトをしたことがあり、その時に日本史の研究、特にフィールドワークを特徴とする民俗学的なアプローチにも面白さを感じるようになったとおっしゃいます。
 その先輩とは卒業後も交流を続け、先輩が短大の教授をお務めだった敦賀まで度々出かけられたとか。そんな中で「伊根の舟屋」の調査に関わったこともお有りで、その時の経験が「歴史研究会」で行った日永地区の街道調査に大いに役立ったそうです。

 その後、早川先生は48歳の年に1年間休職し、三重大学の大学院で1年間、現代中国の歴史研究書講読に取り組まれました。社会人がそのキャリアの途中で一時的に大学で学び直すことは徐々に増えているようですが、当時はまだ珍しかったと思われます。深夜1時、2時まで机に向かうことも多かったとか。

 休職後はすぐに高校1年の学年主任となられましたが、その2年後にご自身の脳腫瘍が見つかりました。
「春休みに仲間と一緒に神戸へ居合の大会に行って。その時、刀でスッパリと手を切ったんですよ。」
 居合道の稽古では全身の動きを丁寧に繰り返し、各部の動きを正確に連動させていきます。真剣を使いますから、体の動きにタイミングのズレが生じたりすると、身体に刃が触れて簡単に大ケガをしてしまうからです。神戸で手を切られたとき、刀を持つ右手と鞘を持つ左手の動きにズレが生じたことに違和感を感じたそうです。
「で、おかしいなと思っとったら、5月の連休にたまたま卒業生が遊びに来てしゃべってると半分舌が動かんのですよ。おかしいなと思ってピンと来たのがオヤジのこと。で、病院に行って調べてもらったら(腫瘍が)有った。」

 順番待ちですぐには切除してもらえず、しばらく待たされた後に入院。即、開頭手術となりました。
「後遺症は覚悟したんですよ。でも幸い場所が良くてきれいに全部取れた。先生には『非常に幸運です』と言われた。でも1年間は走ることすら禁止。頭蓋骨の中に空洞ができたから。」
 幸い術後の経過も良く、夏休み明けには仕事に復帰することができました。その後、中等部長などをお勤めの後、60歳の定年で一旦退職。制度上は常勤講師としてフルタイムの勤務を続けることもできましたが、お母様の介護もあって時間講師の道を選択されました。完全に引退されたのは二〇一九年度末。コロナ禍で全国一斉休校となる直前まで教壇に立っておられたことになります。

田中やよひ先生(右)と藤田智博(48回生) 大病を経てもますますお元気な早川先生。

昔、早川先生からこんな言葉を贈られたことがあります。
「行動する知識人に」
 哲学者サルトルを評して用いられる言葉を引いて、私たちに生きる指針を示してくださったのでした。単に知識を得て満足するのではなく、その知識をふまえて行動に移せる者になれ。そういうことだと今も肝に銘じています。

 お話をうかがってみると、浪人中にアルバイトのボーナスで「学生村」へ遊学するなど、早川先生は若い頃から行動力を発揮しておられたように思います。
「父親がいなかったから制約がなかった。」
 確かに、まだまだ家庭においては父親の力が大きかった時代のことですから、お父様のご不在が、子である早川先生の行動を自由にしたということはあったかもしれません。それとともに、経済的には楽で無かったであろう当時に、「行っといで」と送り出してくださったお母様の懐の深さも早川先生の行動力を大いに育まれたのではないでしょうか。

 長い教員生活の中で、特に「歴史研究会」の活動を印象深く感じておられるのも、「鳥居さんの史料があるよ」という話をきっかけに、史料の整理、解読さらには周辺の街道調査へと行動を広げていかれた、生徒たちとともに大いに「行動」された、そのことが刺激的だったからこそなのだろうと思います。そしてまた、その活動が、若き日の早川先生が志望しておられた研究職と教育職という2つの道を同時に歩むことのできる特別な道だったことにも大きな意味があったのだろうと思います。

 30歳で結婚された奥さまも元々四日市のご出身で、小学校の先生をしておられたとのこと。昔からご家族を大事にしておられた印象でしたが、50代の頃からキャンピングカーやキャンピングトレーラーをお持ちで、家族でよくお出かけだったそうです。アウトドアの遊びやキャンプがブームの今でも、まだキャンピングカーは珍しい存在。20年も前の当時は最先端だったろうと思います。2人のお嬢さまと3人のお孫さんに恵まれ、今はお孫さんとキャンプを楽しむこともあるそうです。素敵ですね。

 学びに対する意欲は今も旺盛なご様子で、日々の読書も主に新書を読んでおられるとのこと。月3冊のペースだとおっしゃいますから結構なハイペースです。
「思想史とか、全然分からんのやけど宇宙ものとか。宇宙の外がどうなってるとかって、面白いやないですか。」
 よりによって、宇宙に関する新書とは! もちろん今も、歴史や民俗に関することにも関心をお持ちで、古地図などに見られる「山の神」や旅先で見かける道祖神や板碑などに惹かれるとのこと。
「調べてみたら面白そうですよね。」
 旺盛な好奇心と向学心には感服するばかりです。行動する早川先生のこと、今度お目にかかるときにはきっと「山の神」のお話などもうかがえることでしょう。今から楽しみです。

※「同窓会だより」に早川先生は「17回生」と記載されていましたが「16回生」の誤りでした。お詫びして訂正いたします。

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