恩師をたずねて

仰げば尊し我が師の恩。引退された恩師を訪ねて近況をうかがう好評企画の第10弾!

  今回お目にかかったのは、愛のこもった毒舌が懐かしい北村皓倫先生です。
出迎えてくださった北村先生 出迎えてくださった北村先生
 川島団地のご自宅に伺ったのは午後4時。夕方と言っていい時間帯でしたが、奇しくもこの日は「夏至」。外はまだ真っ昼間のような明るさでした。
 以前伺った時の記憶をたどってご自宅を目指しましたが、どういうわけかなかなか見つかりません。先生に電話をかけて道案内をお願いすると、1本筋違い。先生は1つ先の通りまで出迎えてくださいました。

 玄関の棚にはたくさんのスニーカーがずらりと並んでいます。そういえば、すたすたと歩く足の回転が速かった印象のある北村先生。大いに合点のいった気がしました。

 通していただいたのはリビング。明るい陽の光が差し込む部屋にはローテーブルがあって、テレビがあって。ふだんから寛いでいらっしゃる先生の様子が目に浮かびます。

「暑くないか?」

 すでに東海地方は梅雨入りしていたものの、当日は晴天。今思えば、陽の当たるリビングはもっと蒸し暑くてもおかしくなかったはず。きっと前もって室温を調整して出迎えてくださったのでしょう。表面的には毒舌混じりのぶっきらぼうな物言いが印象的な北村先生ですが、あれは間違いなく先生の「照れ」の裏返し。細やかな気配りこそが北村先生らしさの本質であったことを改めて思い出します。

豪華なスイーツにご満悦の北村先生 豪華なスイーツにご満悦の北村先生
 私たちのやりとりを聞いた奥様が、くすくす笑いながらコーヒーとお菓子を持ってきてくださいました。色鮮やかなフルーツとプリンの乗った豪華なスイーツ。華やかな歓待に恐縮していると「自分が食べたいから選んだんだと思いますよ」と、笑いながら奥様。先生もそれを否定なさいません。
 溌剌と若々しく、お元気そうに見える先生ですが、それなりの年齢になれば健康上の問題が何も無いのは稀なこと。実際のところどうなのか聞いてみると、

「何にも考えん。考えたらあかん。」

 北村先生はそう即答して笑わせました。

「医者には1か月に1回ずつ検診に行っとるけどな。血糖値がちょっと高いでさ。」

 高血糖に豪華なスイーツ。「一番アカンやないですか」と思わず突っ込むと、
「だから、考えたらいかんのやて」と北村先生。冗談めかしてそうおっしゃいますが、これも1つの真理のような気がします。健康で長生きすることは幸せなことですが、食べたいものを我慢して健康でいることが果たして本当に幸せなことなのか。考えさせられます。

 一九四二年生まれの北村先生は今年75歳。69歳の春に一旦退職されましたが、夏を待たずに海星から要請を受けて「緊急登板」。突然の欠員を埋める形で70歳まで教壇に立つことになりました。

「計画してくれていた送別会が『歓迎会』になってしもた(笑)。」

 退職時には「送別会」がいくつも企画されたそうで、それはまさに北村先生が多くの先生方から愛され、尊敬されていたことの証左に違いありません。いくつも企画されたために、遅い時期に計画されていた「送別会」は「送別会」ではなくなってしまったんですね。

 北村先生といえば「野球部長」のイメージが強いですが、そもそも野球部との関わりはどんなふうに始まったのでしょうか。
 
「強いチームじゃなかったけどな。田舎のチームやったから。」

 中学から野球部で活躍していた北村先生は、長島高校でも迷わず野球部に入ったそうです。ただしそれは軟式野球部でした。その頃の高校野球はまだ軟式が主流で、長島をはじめ、熊野や尾鷲など東紀州地方にも軟式野球の強い選手がたくさんいたといいます。そんな中、高校3年夏の大会には5番ファーストで先発出場されたそうですから、東紀州屈指の有力選手の一人であったのでしょう。大学でも準硬式野球部に所属しておられました。
 
「野球部はな、練習なんか見に行っとったんや。」

 今でこそどこの学校でも多数のクラブが活動し、ほぼ全ての先生が何らかのクラブ顧問を務めていらっしゃいます。しかしまだクラブ活動が盛んでなかった当時、北村先生はどのクラブ顧問にも就いておられなかったといいます。まだ20代だった北村先生。何しろ野球がお好きでしたから、暇を見つけてはグラウンドへ出ておられたそうです。それが校長先生の目にとまったのでしょう。30歳の頃、副部長に就任することになりました。当時はすでに県内屈指の強豪校となっていました。
 ところが、一九七六年、夏の大会が終わった直後にひょんなことから部長と監督が急遽退任することとなりました。当然、関係者は大騒ぎ。たまたま実家に帰っていた北村先生も「すぐ戻れ」と学校に呼び戻され、夜の校長室に。待ち受けた校長とスポーツ後援会長は声を揃えて、北村先生に部長兼任監督への就任を要請しました。当然、北村先生も大いに驚かれましたが、秋の大会を間もなくに控えており、新たな候補者を外部から招聘する余裕もなく、北村先生はやむなく要請を受諾されました。
 結局フタを開けてみれば秋の大会は見事優勝。その時のメンバーの一人が後に海星野球部を何度も甲子園に導くこととなる湯浅和也先生でした。
 秋の大会を終えた北村先生は、無敗のまま監督を外部指導者に譲り、部長職に専念。それから4年おきに計3回、野球部を甲子園に導かれました。

 比較的若い卒業生にとっては毎朝校門で出迎える「生指部長」の印象も強いでしょう。主に身だしなみや生活態度、風紀の側面から生徒たちと関わる「生徒指導部」。ときには生徒の問題行動や処分を扱うこともあるハードな役割です。前任者の後を受けて部長職を引き受けることになりましたが、意外にもそれまで「生徒指導部」に配属されたことは一度もなかったそうです。ハードな役割だけに「3年だけ」という限定で任された生指部長職。結局4年間担当することになりました。

「便利屋やからな」と北村先生。何事にも前向きに取り組む誠実なお人柄と、ハードな役割に堪えられる心身のタフさを持ち合わせていらっしゃることが評価されていたからこそ、「緊急登板」を求められたのでしょう。

 4年間。毎朝校門に立ち、登校してくる生徒たちを出迎えました。多くの生徒たちにとっては「温かなお出迎え」、後ろめたいところのある生徒にとっては「門番に立ちはだかる仁王」のように見えたことでしょう。毎日顔を合わせ、挨拶を交わすことが生徒たちにもたらした好影響ははかりしれません。

 長い教員生活の中で印象に残る「いい思い出」は何かと尋ねると、意外にも、教え子たちとのエピソードではなく、同僚である先生達との協力について話をしてくださった。

懐かしそうに思い出を語って頂きました。 懐かしそうに思い出を語って頂きました。
「学年主任の時は担任集団に恵まれたね。みんな協力的で学年が一つになった。」
 たくさんの生徒と関わった北村先生。生徒たちとの良い思い出もたくさんあるに違いありません。それでも何かを語れば、他を語らないことになります。そんな思いが、「何か」を語ることをさせないのでしょう。

「志賀高原の合宿でも、みんなで必死になってやったもんな。」
 生徒たちにとっても思い出深い行事であろう「志賀高原学年合宿」。高校1年生の夏の恒例行事でした。登山やファイヤーストームを伴う3泊4日の一大イベント。手作りの行事だけに先生方の苦労も大きかったに違いありません。

「学校では見られん、生徒の本当の姿を見られた。一人一人の本当の個性っちゅうかな。あれは良かったと思う。」

 非日常の場所で、長い時間をかけ、心身ともにハードな体験をするイベントであったからこそ、生徒たちは本当の姿を見せたのでしょうし、先生方も彼らとじっくり向き合うことができたのでしょう。また、そういう得難い機会を作り出す1つの目標に向かって先生方が力を合わせたからこそ、北村先生は印象深く記憶されているのでしょう。

「あれは続けて欲しかったな。復活させてほしい。」
 北村先生はそうつぶやかれました。海星が「志賀高原合宿」を始めた頃は、まだ「アウトドア」という言葉も今のように使われていなかった時代。その後、あちこちの学校が似たことをやり始め、野外活動は珍しくなくなりましたが、「授業時間の確保」が叫ばれるようになって今は逆に減りつつあるようです。

「パソコン眺めとるだけじゃあかんのや。」
 机の前で頭だけを使い、インターネットに答えを求める。そんなやり方でなく、全身全霊で生徒と向き合い、生徒の成長に寄り添う。北村先生は、そんなふうに教師の仕事を全うされました。しかし、考えてみれば、教師の仕事に限らず、仕事というものは本来そういうもの、現場で対象と向き合って自ら答えを探し出す、そうあるべきものではないでしょうか。

「僕、今でも行っとるんや。夏の山へ。」
 なんと、在職中から「合宿」以外でも毎年志賀高原を訪れていらっしゃるとのこと。残念ながら、海星の定宿「レークホテル」は「塾の合宿でずっと押さえられてる」らしく、お泊まりは他の小さな宿で、そこを拠点にハイキングなどを楽しみ、夏山を満喫して気分転換をされるそうです。

「去年は慰霊の登山やったんや。」
 聞けば、ご近所にお住まいだった海星OBのお一人が最近病気でなくなったそうで、その方の写真を親御さんからお借りして、それを背負って山を歩かれたとおっしゃいます。

「亡くなっても、何にもできへんやろ。お参りするぐらいのもんでな。」

 そんな山歩きを楽しむため、という目的もあってウォーキングが趣味の1つに。新聞を読んだりしてゆっくり午前を過ごし、午後から出かけるそうです

「神前のほうへ行ってさ、車を置いて田んぼ道をずーっと歩くんや。」
 「ヒマ人みたいに思われる」のがイヤだからと近所を歩くことはせず、わざわざ車で出かけておいて、そのあたりを歩くのだそうです。ウォーキングの時間が取れるのですから「ヒマ人」であることは自他ともに認めるところなわけですが、家の周りを歩きたくないという気持ちは分からないでもありません。
 かといって「人嫌い」なわけではない北村先生。ウォーキングの途中に繰り返される「おしゃべり」も楽しみの1つであるようです。

「東名阪の下ずっと歩いて、いろんな人と会って話して。一所懸命はなかなか歩けんのや、いろんな話ばっかりしとって。畑仕事やっとる人とか、な。」

 楽しそうに話されるので「先生が手を止めさせているんじゃ?」と突っ込んでみると、

「僕が行くとさ、耕耘機乗っとる人が降りてくるんや。田んぼの中におってもさ、道まで出てくるの。話好きなんや、あの人ら。」

 話好きどうし。楽しいひとときに違いありません。

「途中に牛舎があって、その横に石垣があってな。ちゃんと座れるようになっとるんやわ。。ありがたいんや、ほんとに。いつも野菜くれる人がおったりな。ちょっと歩くと、またそこでも立ち話。楽しい。」

 たいてい昼食後に出かけていって、家に帰ってくるのは夕方になるとのこと。
 
「夕方帰ってきて、風呂入ってビール飲んで。毎日飲んどるな。」
 なんとも幸せな日常です。

「たまに誘ってもらって『年寄り会』へ出て行って。」
仲の良いOBの先生方が時々集まってお酒を楽しんでいらっしゃるのだそう。長くともに働いた先生方が集まるのですから、思い出話に花が咲くことは間違いありません。それはきっと楽しい時間でしょう。聞けばメンバーの顔ぶれもすこぶる魅力的。ご一緒させてもらいたいくらいです。

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